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グダグダ感たっぷりのまとまらない話 [漫画]

先日、去年劇場公開した映画「サマーウォーズ」が地上波で公開されました。
劇場で観た時に、面白いと思いましたので、ついTVでも観てみましたが…、あれぇ~? 面白さが大分削がれているような気が…。

その感想が結構変わってしまったのは、尺の関係があるからでしょうけど、結構編集で端折ってしまったのが大いに影響しているように思います。
初見の人からしたら、面白い・上手いといわれる理由は納得しにくいかも、少なくとも面白さ・上手さがそれほどまでには感じられないのでは、と私個人は思いました。
実際、私自身は、長めのダイジェストを観ている様な気分になりました。やはり、観られるものでしたら、ノーカットで観たいものですね。 今回、評判がそこそこ良かったら、今度はノーカットにしてみるとか、検討して欲しいものです。

ところで、その編集で端折ってしまったところについてですが、伏線の回収は見せているのに、張った伏線それ自体は省いていたりして、上手い!と思った部分が、部分的な欠落から十分に見せられないものになっていたりして、あまり重要ではないからと判断して省いたのでしょうが、少し残念でした。

具体的には、
・高校野球に関しては丸々省いたせいで、ユミさんが何故メジャーリーグのレプリカらしきユニフォームを着ているのか分からんし、
・何故、カズマがマンサクを師匠と呼ぶのか、アレでは分からない気がするし、
・花札に関しても侘助とヒロインが対戦したシーンを省いたので、最後のラブマシーンとの対戦で花札を選択して、家族を代表するのが何故ヒロインなのか、説得力に欠けるし、
・カズマがラブマシーンと再戦して、泣くシーンの科白で、妹云々と言う辺りも、先行した描写を省いてしまっているので、唐突な感じがするし…。

また、あれ?と思ったのには、別の理由もありまして。
なんとはなしの、非常に感覚的なもので恐縮なのですが、単純に、CMが入っているからとか、そういうのではなく、ものがたりの本筋ではあまり重要でないはずの部分の省略などで、なんとなく、テンポが悪くなってしまったような印象がありました。


この、テンポという辺りの話に関連して、話を変えてみます。

ちょっと前になりますが、私はあだち充のロングインタビューを読みました。
http://natalie.mu/comic/pp/adachimitsuru

インタビューも全般に面白いものだったのですが、その中で、彼の上手さについてなるほどと納得した話がいくつかありました。

あだち作品の魅力について、その源泉、ルーツみたいなものは何かと訊かれた際に、あだち…は
基本的には高校時代聴いてた、深夜ラジオと「落語」と答えている箇所があります。
あだち…の作品には、作品の根底に落語がある。
別のところでこの点については聞いたことがあるような気もするのですが、インタビューのこの箇所を読んで、改めて妙に納得しました。

落語、特に古典落語などは、ものがたりとしては同じ話なのに、噺家によって面白さが違ったり、また、話を知っているのに笑える。何故そういうことが起きるのか?
私は、噺家のテンポ換言しますと「間」、によるところが大きいのではないか、と思うのですが、いかがでしょう。

余談ながら。一方、間が悪いということについても。
時季がタイムリーなので挙げておきますと、稲川淳二(ファンの方、お読みでしたら申し訳ないです。以下は、あくまで私個人の感想で、好きな方を貶める意図はないです)の怪談について。
私が、別段怖い話好きではないからというのもありますが、少し耳にする彼の話しぶりは、早口で、全然雰囲気がなくて、つまるところ「間」が悪いものなのではないか、と思ってしまって、聞く気がしなかったりします。

いや、私自身は、自分でも凹むくらい喋りの間が悪いので、偉そうなことはいえないんですが。
分かっているのと、実践できるのとは違いますね。


閑話休題。
また、あだち…はこうも話しています。
そのお話の伝わり方を、自分なりに味付ける方法は意識してはいます。話を伝えるだけだったら、いらないコマはいっぱいあるんです。

話の本筋そのものにとっては不必要だが、話の伝わり方への意識から入れるべきと、あだち…が考える「いらないコマ」。
それらのコマは、あってもなくても、ものがたりの展開には問題ないものなんです。
それでも入れることで、分かり易いし上手く伝わる…。

これというのは、やはり「間」の意識ではないかと思います。
いらないはずのコマで、間を作っているのではないか、と。

で、話を「サマーウォーズ」に一旦戻しますと、本筋に関わりのないはずの部分の編集・カットで、テンポが悪くなったように私が感じた理由は、その削られた部分が作品にとっての「間」を担っていたからでは?などとテケトーなことを思いましたがいかがでしょう。


ところで、話はあだち…に戻しまして。
話を伝えるだけだったら不要とされるコマは入れる一方で、あだち…は、「必要以上に説明しない」「察する世界」を展開している、というのも彼の作品の特徴として挙げられますね。彼はこう言っています。

本当にそれは、その世界(=察する世界)が好きなんです。そうありたいなと思うんですけどね。実際はなかなか難しいんでしょうけども、野暮はいけないんですよ。その辺は落語で学びましたね。それを言ったら野暮になるという、そのポジションみたいなものは。粋でありたいですよね。

説明過多にはしないで、「察しろよ」と、説明を省く。
私自身も、読み手として、「なんでこんなことをキャラクターに言わせちゃうかなぁ」と、説明過多でげんなりすることがありますので、あだち…のこのスタンスは、非常に好きです。

そんな感じで、まとめ。
「間」及び、言わなくても察するという「粋」の作品を描いていく、あだち充の根底には落語が流れている、ということでいかがでしょう?


話は逸れますが、あだち…の作品で、いまだに気になっている一言についても書いておきます。
私は「H2」のラストの頃のひかりの科白で「最初から(選ぶ)権利がなかった」というようなものがあったんですが、これは…、言葉を間違っているよなぁ、と、かなり残念だった覚えがあります。
こういうところ、あだち…は、かなり丁寧な方なので、すごく気になりました。

いや、権利はあったと思うんですよ。だって、当事者の間で、試合の前にそういう話でまとまったんですから。
「権利」ではなく、ひかりの心中で英雄と比呂のどちらかという「選択肢」なんてなかった(=英雄一択)と言いたかったと私は感じたのですが…(私の読み違いでしょうか?)。
ですから、「権利」のところは「選択肢」とか、そういう類の言葉なんだよなぁ、と個人的には思いながら読みました。

…こういうことを書いてしまうのが、説明過多の野暮ですね、私。HNは粋狂なのになぁ…。

ということで今回は、サマーウォーズの編集の影響という話から、間の話になってあだち充と落語の話になって、…書き手の能力を超えましたので、御覧の通りグダグダですわ、という話。

 


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他人には理解できないルールの住人-安倍吉俊「リューシカ リューシカ」- [漫画]

今更言うまでもないことですが、私は自慢にならないくらい貧乏です。
…なもので、体の変調にどちらかというと過敏に反応する割に、温度変化に無頓着、というよりも、頓着する経済的余裕がない、という状態で、した。
どんな状態だったかと申しますと、ここ2年くらい、エアコンはコンセントにプラグを差し込んですらいない状態で、室温は高いところで、35度超のところがあって、そこで寝ていた、というと分かり易いでしょうか。…体力のない老人や幼児でしたら、ヤバいことになるレベルですね。

一度、こんなことがありました。
ある暑い日に、いつものように寝ておりまして、寝返りをうちましたところ、「冷てっ!」と目が覚めました。
何が冷たかったのかと申しますと、寝汗マットレスが自分の体の下でびっしょりでした。
我ながら、なかなかにすごい状態でした…。

ですが、今年は少し事情が変わりまして。
というのも、汗で、背中辺りの皮膚がふやけて(長風呂したときの皮膚をイメージして戴ければ宜しいかと)、かなりの範囲でうっすらひび割れて、肌がカサカサになってしまいまして…。
さすがにまずいと。なもので今年は、私にしては生意気にも贅沢にも、エアコンを使用しております。

去年までの違いは、…勤務先の環境が影響しているんでしょうね、きっと。
現在の仕事場は、結構快適なもので。加えて、私自身の格好も、従前のスーツ着用という暑苦しい格好から、かなりラフな私服になりましたので、体が楽な方に順応してしまい、それがゆえにエアコンを使用しないと対応できなくなった、ということかもしれません。


とまあ、エアコンを使用するか否かといった、私自身のけち臭い身の上(さすがに、自分で書いていても少し凹みます)はさておきまして、私が「貧乏」というキーワードで思い出す漫画といえば、安倍吉俊「NieA_7(ニアアンダーセブン、が本のタイトルとしては正確かもしれません)ですね。
どんな話かと申しますと、舞台はほぼ現代。いつの間にか地球に住むようになった宇宙人が日常見かけられるようになった世界。
貧乏浪人生「まゆ子」と、まゆ子の部屋に居候する地球在住の底辺宇宙人「ニア」のドツキ漫才な日常を描いた漫画。 

で、「NieA_7」タイトルの「リューシカ リューシカ」と何の関わりがあるのかと言いますと、作者が「NieA_7」と同じ安倍…なんです。
その「リューシカ…」、どんな話かと申しますと、舞台は現代日本の一家庭。その家族の末の娘「リューシカ」と、その姉や兄との日常を描いた作品になります。

掲載は、雑誌ではなく、Web。それを反映して、単行本はオールカラーとなっています。
…やはり、今後、こういう系統の作品も少しずつ増加していくんでしょうかね。悪いことではないと思うんですが、いかんせん、カラーの多い単行本は単価が高くなるのが…、ねぇ? などと貧乏な私なんぞは思ってしまいます。

…また、貧乏話に戻ってしまいます前に内容について話を移します。
冒頭の、その1の「あかくてまるくてにらむもの」で、ただただ大笑いしました。一発ではまりました。
主人公リューシカと姉のあーねーちゃんの掛け合いは、ニアとまゆ子のボケとツッコミに似ていて、いいテンポです。

また、そのテンションが、「NieA_7」のそれに近くて、久々に安倍…のこちら系の作品を読んだ気がします。こういう系統の作品の方が面白いので、こちらをメインに描いて欲しいなぁ、とつくづく思います。
暗いのも…、まあ、いいんですけど。バランスとして、です。


しかし、単行本を読んでいくにつれ、笑えるということだけでなく、懐かしさとともに、年齢を経るにしたがって失われたものが描かれていることに気付きました。

例えば、リューシカは
姉の有季子(ゆきこ)のことを、「あー」という言葉がどこにも入っていないのに、「あーねーちゃん」、
兄の賢を「アニー」、
今のところ絵的には現れていませんがママのことを「まー」と呼びます。
それを姉や兄に指摘・訂正されても、直しません。それは何故か。

思うに、作中説明されてはいませんけれども、言葉の源を考えると、「姉」、「兄」、そしてママではなく「マザー」という言葉を、リューシカがどこかで知り、その上で、自分なりに変換(どういうロジックかは不明ですけれども)して、一般名詞ではなく固有名詞混じりのものとして使っているのではないか、と私などは思います。
自分なりのロジックに基づくので、リューシカにとってそれは正しい、だから兄や姉に指摘されても、「あーねーちゃんも、アニーも分かっていないなぁ」と、直さないのではないか、と。

このように、子供が他人には分からない、独自のロジックというのか、ルールというのか、を作っているのが読み取れるかと思います。

また別に、例えば、ex5の「めいきゅういりじけん」で、ラーメンのエピソードが展開していますが、これなどは個人的に親近感を覚えました。
というのも、私は、幼少の頃、ラーメンを食べるのが苦手といいますか、ハンパなしにものすごく遅くて、両親からいつも怒られていました(…なもので、味云々ではなく、この「親に怒られる」が理由で、ラーメンがものすごく嫌いでした)。
何故食べるのが遅かったのかといいますと、ラーメンのスープに浮かんでいる油が気になっていたからです。転々と浮かんでいる油を、ひとつにまとめよう、まとめなくてはならないと、いつも思っていました。

さらに、何故ひとつにまとめようと思っていたのかは…、分かりません。リューシカのように、油が生きているように思っていたところはあったように思います。「バラバラになっていて可哀想だから、ひとつにしてあげなくては!」ということだったかもしれません。
それに加えて、なにがしかの理由があったのかもしれませんが、何故そんなに油をまとめるのに執心していたのか、今となっては分かりません。

同じものを見ているのに違って見える、子供の目というフィルターを通して見える世界。
「リューシカ リューシカ」には、いつの間にか消えてしまう、その世界が描かれているように思います。

さらに、何故、いつの間にか消えてしまうのかということを考えるに、こんな理屈がひとつにはあるのかなぁ、と。
安倍自身は、冗談交じりの対談形式のあとがきに、この作品を

「リューシカという空想癖のある女の子のお話で、空想がどんどん変な方向に転がってゆく事に、何かおかしさや、不安や、逆に、空想を頼りに不安とたたかう子供の力、のようなものを描こう(後略)」
「子供の目から見た時、世界は知らない事、分からない事だらけで大人には分かってもらえない怖い事や不安な事がたくさんあった(中略)かみ合わない部分を埋めて世界を面白いものに変えてくれるのが空想なんじゃないか(後略)」

と書いています。

そこから考えるに、経験・知識も少なく見てきた世界も狭い子供が、よく分からない事態に出くわした際、自分を納得させるために、自分の中にある経験や知識、自分の知る世界の中にあるものでなんとかしようとする訳ですが、それでも足りないときに、空想で補うことになります。そして、経験や知識が増え、所謂常識が身に付いてくるにつれて、不足を空想で補う必要がなくなっていきます。それで、空想で補われた世界は常識にはじかれて失われていくのではないかと、私なんぞはそう考えるのですがいかがでしょう?

このことについて、似たようなエピソードが実は描かれていたりします。
ex1の「きえたおとはどこへ」という話がそれです。
どんなあらすじかと申しますと、リューシカは最初、CDの聴き方を知らず、CDを手に持ってそれを眺めることで、空想で補いながら音楽を聴きます。
それを兄が見つけ、プレイヤーの存在を教え、CDに収録されている音楽をリューシカに聴かせます。
すると、リューシカが空想で補って聴いていた音楽は失われ、もう思い出すことができなくなってしまう…、というもの。

この話などは、端的に、空想や想像力が常識によって消えていってしまう様を示しているように思います。


余談ながら。
たまに思い起こされるのですが、昔「絶対に忘れない!」と誓ったことを、すっかり忘れてしまったなんてことはあります(私は頭が悪いので、なおさらです)。当時の自分にとって、かけがえのないような大事だったことのはずなのに、大半の「忘れない!」と思った内容はおろか、忘れまいと誓ったことそれ自体を忘れてしまいます。
少なくとも、私は頭の悪さも相俟って、そういう誓いのほとんどを覚えておりません。

今になって思うに、それ自体がどういうことだったのか思い出したいということもあるのですが、それ以上に、自分にとって、その忘れてしまったことは何がそんなに大事だったのかなぁ、何故、そう思ったのかということが知りたいですね。


閑話休題。
そんな訳で、「リューシカ リューシカ」、私なんぞにとっては「昔、似たようなことを考えていたなぁ…」というノスタルジックな面もありますが、基本、素直に笑えるものがたりですので、あまり難しく捉えずに御覧になっていただき、楽しんでいただきたい作品です。 

ということで今回は、主人公の女の子、姉や兄の名から判断するに、恐らく日本人なのに何故「リューシカ」?と思われた方は、単行本でご確認下さい、あるいは、正確を期すためAmazonで、「ニアアンダーセブン」をチェックしてみたら、…中古で4,980円?いくらなんでも高すぎだろ、という話。

 

追記:
話は少しずれますが、少しばかり関連するところ。私にしては珍しく、現在比較的人気がある方々の音楽について。

何かと申しますと、BUMP OF CHICKENの「魔法の料理~君から君へ~」。
偶然、「みんなのうた」で聴いて気に入りました。多少、話題になりましたから、既にご存知の方も多くいらっしゃるかと思います。一応、法を学んだ者として、権利関係を考えるに、やはり、ここにURLは載せるべきではないと思いますので、気になった方は、面倒かもしれませんが、You Tubeなどで「BUMP OF CHICKEN 魔法の料理」と検索をかけてみてください。
個人的には、「みんなのうた」のアニメーションコミで上がっている、5分弱のバージョンがお薦めです。

…BUMP OF CHICKEN、他の彼らの曲はほとんど知らないんだけど、「花の名」いう曲も良かったなぁ。
歌詞とPV(バックで、どうも都市が空爆されているみたいなんですよね)とのギャップが、妙に引っかかりますが。
イメージとしては、アップテンポの曲が多いような気がするんですが、彼らのスローな曲の方が、個人的には気に入っているようです。

 


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ロマン・ノワールな世界-寺田克也「ラクダが笑う ファイナル・カット」- [漫画]

暗黒小説というジャンルがあります。語感からすると、黒魔術のような、なんともアヤシゲな印象を受けますが、そうではありませんで。

この暗黒小説の妙な語感の理由は、フランスの「ロマン・ノワール」の「訳語」だからでしょう。
では、そのロマン・ノワール、どういうものかと申しますと、アメリカのハードボイルド小説の影響からフランスで生まれた小説の分野でして(その後、アメリカに逆輸入されます)、社会的に悪とされるものが栄えるといいますか、「力」がものをいう、そんな暴力的な世界観が背景に見られるものが多いです。

で、私は少ないながらも、この分野の担い手のエルロイの作品(「ブラック・ダリヤ」)、日本では馳星周の作品を読んだことがあります。ジム・トンプスンも1冊読んだのですが…、なんだかげんなりして、以降彼の作品は読んでいません。…そういえば、エルロイもトンプスンもアメリカの小説家で、本家のフランスのロマン・ノワールを読んだことがないのに、今気付きました。

その中で、馳…の作品などは、暴力に併せて、少しのロマンスというのか、少し情に訴えるようなウェットなシーンがあり、単に殺伐とした世界ではない辺り、ハードボイルドの影響というものを感じます(読んでいると、フィリップ・マーロウの「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」という言葉が、頭をかすめる感じがします)。
彼の作品は、好きです。文章にスピード感があって。最近は全然読めていませんが、一時期は結構読んでおりました。
…と、こんなことを書きますと、また読み始めたくなりますね。


何でそんな話をしたのかと申しますと、これです。

ガン見.jpg

舐める.jpg

事の現場を激写!

「目の前に、美味しい匂いがしたら、とりあえず舐めてみる。それが私」
いや、お前、親に甘やかされまくってるせいで、躾がなってないから!

…いやいや、そうではありません。
日本の漫画において、暗黒小説的な作風の作品って、全くないことはないのでしょうが、あまり見かけないなぁ、と思ったんです。
ある作品を読んで、逆に、その珍しさに気付きました。

その作品というのが、寺田克也「ラクダが笑う ファイナル・カット」(徳間書店)です。
この作品、まさに、暗黒小説の世界です。暴力的な世界において、自分の快楽(特に性的なそれ)に身をゆだねつつも、案外身内に対する情に厚い男「ラクダ」が主人公のものがたりで、騙し騙され、裏切り、信じたマヌケはハメられる、そんな立場がコロコロと変化していく話が展開していきます。疾走感がたまりません。

ただ、全面的に暗黒小説的な作品かというと、これがそうではありませんで、やはり、漫画的なユーモラスなところも散見され、漫画としてきちんと成立した面白い作品です。

それで、その作風も珍しいのですが、画力も抜きん出ていて、日本ではあまりお目にかからない類の上手さ(別に、海外の方の画力が全て高い、という意味ではないです)というのも珍しいです。
…逆にこれがネックで、日本より、海外での方が評価が高くなりそうな気がしないでもないですが、まあ、それはそれとしまして。

Love & Violence な世界観が、お好きな方にはお薦めな作品です。
興味を持たれた方は、御覧になってみてはいかがかと思います。


おまけ:今月、実家に行った際に撮った三代目
あくび.jpg

悪い奴ほどよく眠る1.jpg  悪い奴ほどよく眠る2.jpg

オチとしては、ロマン・ノワール的な世界観っぽく「悪い奴ほどよく眠る」ということでいかがでしょう。
しかし、間抜けな面だなぁ…。この間、実家に行ったときよりデブになってたし。


ということで今回は、「タフで優しいから生きている資格がある…」というのは、西村しのぶ「サード・ガール」の中で、フィリップ・マーロウの科白を正確に思い出せない涼の科白でしたが、私自身は、へなちょこで優しくない、怒りっぽい性格なので、生きている資格がなくて、だから相方がいないのかなぁ、と反省しきりです、という話。

 

 


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漫画の要素をちょっと偉そうに考えてみる―KUJIRA、売野機子、羅川真里茂― [漫画]

「かつてこの子は悲しかった」というのは、もう随分昔の少女漫画になってしまいますが、萩岩睦美「小麦畑の三等星」のラストの言葉(と書きつつ、私は記憶違いから「かつて少女は悲しかった」だと思っておりまして、今回ネットで調べてみました…)でしたが、かつて、女性向けの漫画には、ある不文律(というと大袈裟ですが、まあインパクト重視で)があったように思います。

その不文律というのは、描線。
かつて、ある時期の女性向けの漫画の描線というものは、細く綺麗であることが基本であったような気がします。
平家にあらずんば人にあらずではないですが、細く綺麗であらずんば漫画にあらず、のような。
上記は過言かもしれませんが、基本的に、より細くより綺麗に、というのがあったように思います。

サンプル数があまりに少なく、また、私自身、女性向けの漫画全般について、全然詳しくないので単なる偶然なのかもしれませんが、最近、女性向けの漫画に少し、変化の傾向がある、ような気がします。
ただ、そのよう作品を、比較的短期に続けて見かけたので、そのように感じたのかもしれません。

読んだ作品というのは、KUJIRA「ワールドエンドゲーム」と、売野機子「薔薇だって書けるよ」
どちらの作品も、結構面白いものだったのですが、少し、描線の粗さといっていいのか、少なくとも抜きん出て美麗なものではありませんでした。

「ワールドエンド…」の方は、帯の紹介が谷川史子というだけで購入してみましたが、結構アタリでした。
ただ、一部、女性にはかなり嫌な描写があると思います(話の展開上、必要ではあるんですけれども)。男の私が見ても嫌な描写なので、女性でしたらなおさらではないかと。

閑話休題、描線です。
おそらく、まだ傍流も傍流だし、今後も決して主流になるとは思いませんが、こういう描線偏重でない作品が出てくるのは、いいことではないかと思います。
というのも、描線でないところに売りがあるということは、多様な作品が出てくることにもつながる、のではないかと考えるからです。描線の流麗さが必須というのは、変な固定観念だと思いますし。

ところで、あまり気にしていなかったのですが、描線について少し考えてみると、祥伝社系の作品には、こういう描線の作品、あるのかもしれませんね。南Q太など、あまり描線が綺麗とはいいがたかった記憶がありますし(南Q太の描線が好きな方、申し訳ないです)。


もうちょっとマクロな話に展開してみます。

漫画には、いろいろな要素がある訳で、描線が綺麗であることは無論マイナスに作用するものではありません。しかしながら、必ずしも綺麗でなくてもいいはずでは、と思います。
描線で重要なのは、自分が表現したいものを表現するのに、足りているのかという点にあるのではないか、と考えるのですがいかがでしょう。

また、人には得手不得手があるのが常ですから、仮に描線が不得手であるとしても、最低限のレベルを満たしているならば、他の得手とする要素でカバーすることもできる、はずです。

いろんな要素…、例えばストーリーであったり、演出であったり。
コマの構成やレイアウト、視線誘導の上手さで読み易さを重視することでもいいですし、またアクションシーンの上手さでもいいし、キャラクターの科白の妙でもいい。はたまた、キャラクターそのものでもいい。薀蓄の類を語らせて作品に深みを出してもいい。 


私は、漫画には、ドベネックの桶は必ずしも該当しないと思っています。
いや、無論、表現したいことがあっても、技術的に不足していて絶対的に表現できないとすれば、その不足している技術が足かせとなって、その技術どまりの表現となってしまうので、それはまさにドベネックの桶そのものといえますから、該当する部分がない訳ではないんです。

ですが、ある表現は技術的にできないとしても、その代替でもって、カバーできればそれはそれで問題ない。
それでカバーできるか否かのレベルに達していれば、ドベネックの桶は該当しないといえます。

ドベネックの桶…植物の成長について使われるものですが、植物の成長を桶の中に張られる水に見立て、桶を作っている板を養分・要因と見立てる。これならば、たとえ一枚の板のみがどれだけ長くとも、一番短い部分から水は溢れ出し、結果水嵩は一番短い板の高さまでとなる、というもの。

極端な例としては、「ナニワ金融道」とか西原理恵子の諸作品を引き合いに出すと分かりやすいかと思います。

少女漫画ですと…、描線というより絵柄の問題になるので、あまり適当な例示ではないかもしれませんが、羅川真里茂の作品を挙げてみます。

羅川真里茂の絵柄は、どちらかというと、これは首をしっかり描くこととキャラクターの輪郭があまり面長でないこと(アゴがかなりしっかりしてるんですよね)、結構がっちりとした体格を描くことなどに起因するからではないかと思うんですが、あまり少女漫画然としていないように思います。
低年齢のキャラクターの目の大きさは、少女漫画していると思うのですが、まあそれはそれとしまして。

この辺りが影響してか、何年か前に漫画好きという大学生の女の子に、羅川…について尋ねると、絵柄がネックだったらしく、「テニプリ」は読んでいるけど「しゃにむにGO」は読んでいないという返事でした。
…個人的には、「それは、読むべき作品が逆だろう?」というツッコミを入れたかったのですが…、まあ、人それぞれですから仕方ありません。

ストーリーについては、上手いですね。この方、長編も上手いですが、短編も上手いと思います(両方上手い人というのは、案外少ないように思います、私)。
決して多作でない方ですが、作品の多くは、上手くまとまっているように思います。
先日、「罪」を題材とした3編の短編を収めた「朝がまたくるから」を出しましたが、…いやぁ、上手い。
出先の電車内などで読んでなくてよかった…と思いました。

やはりね、女性向けの漫画読んで、車内で目をウルウルさせて肩を震わせているオッサンなんて、見目麗しくないですし、かなり傍目には、かなり「怖っ!」というものですから。
…個人的には、特に最後に収録されている「冬霞」がツボにはまりました。

まあ、そんな訳で、ある要素に拘泥するのもどうか、ということです。
拘ってしまうことで、面白い作品を見逃してしまっていることもあるのではないでしょうか? …と、そこまで言ってしまいましょう。


あ。
もちろんのことですが、描線が駄目だと思ったら、描線の上達なんて諦めればいいじゃん、という意味ではないですよ?
より上手く、という向上心はあった方が良いに決まっています。

そうではなく、不得手をなくすことだけに目を向けるのではなく、自分の武器を特化してやる!くらいの意識もアリのではないかと、そういう訳です。
どこかしらが突き抜けている方の作品って、全般に平均的な作品と比較して、面白いと思うんです、私(というより、そういう作品が、好きなものでして)。

とまあ、思いつくままにテレテレと書いてみました。
上手い・綺麗などは、かなり主観に左右されるものですので、「何を言ってんだ、こいつ」と思われるところも多々あるかと思います。
一方、いまさらお前に言われんでもそんな事ァ、分かっとるわ、という話でもありまして、…何を書いているのか、自分でもよく分からなくなってきました。

ということで今回は、私がつれづれなるままに書いたものはまとまりがなく、誰に向けて書いたのかも判然とせず、居酒屋の酔っ払いの与太話に似ている、という話。


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こういう基本的なことが抜けている…―近藤ようこと高橋留美子― [漫画]

今回は、ほんのちょっとした小ネタ。 

最近、ゆえあって近藤ようこ「水鏡綺譚」(青林工藝社)を引っ張り出して少し読みました。
初見のときも思ったことなんですけれども、この作品、高橋留美子の歴史伝奇ものというのか、端的に書きますと「犬夜叉」って、この作品の影響受けたのかなぁ、という感想を持ちました。

実際、「水鏡綺譚」の帯の文章は、高橋留美子が書いているんですよね。

それで、さらに、「見晴らしガ丘にて」(青林工藝社)を読んで、さらに思いが強くなったことがありまして。

…アングルとか、1頁のレイアウトとか、さらには、コマをカメラに写った映像に見立てると、キャラクターまでの距離感が、似ているんですね。
視覚的な部分以外の点にも触れますと、題材が「水鏡…」の歴史伝奇ものといい、「見晴らしガ丘…」の普通の人を主人公に据えた現代ものといい、高橋留美子との類似性が見出せ、また、こちらは多分に主観的な感想なのですが、描きたいものの違いは明確にあるものの、何か根の部分が似ているなぁという印象を受けました。

とまあ、「何で似てんの? このお二人、どういう関係にあんの?」との思いを強くしたので、ひとつ調べてみました。

すると、簡単に理由と思われる事実が分かりました(以下、wikiの近藤ようこの記述を引用)。

…新潟中央高校在学中に同じく同校在学中であった高橋留美子らと共に漫画研究会を設立した事でも知られる…

なるほど。高校時代の同級生(同級生である胸の記載は、高橋留美子の記述にありました)で、漫研設立って…。そりゃ、影響あってもおかしくないわなぁ。
でも、マンガヨミなら、多分、基本的な情報だよなぁ、これって。

マンガヨミ歴の浅さがゆえに、こういうことが平気であるので、自分はバランスが悪いなぁ、とつくづく思います。

ということで今回は、バランスが悪くったっていいじゃない、俺だもの、という話。


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還ってきた男―安永航一郎「青空にとおく酒浸り」― [漫画]

いつ頃だったか、結構前、私が視聴できていた頃のBSマンガ夜話での話を聞いて、私の中で、「野放し系」というくくりができました。 

では、その野放し系とはなんぞや? となりますが、字義通り、勝手気まま、その者の好きにするということを指します。好き勝手に描きたいものを描く漫画家=野放し系という訳です。

いや、実際のところはそのとおりなのかは分かりません。別に業界の人ではないですから、私。
編集の方と綿密に打ち合わせをしているように見えて、その実、自由気ままに描かれている方もいるかもしれませんし、その逆もまた然りかもしれません。

そして、野放しといっても全くの自由ではなく、何らかの抑制は当然あるでしょう(少なくても編集の職務の一部に、そうしたチェックがあると思われますから)。

しかし、それでもなお、作品から作者の自由度の高さが、その作品の良さとなっていると感じられる、そういった作品を描く漫画家をもって私は「野放し系」と呼んでおります。

もっとも、別に、普段から意識している訳ではありませんで、ただ、その作者の作品を読むに、「自由に描いているなぁ」と感じ、その際に、ふと「野放し…」と思ったり思わなかったりする程度です。


さて、何ゆえそんな話をしたのかと申しますと、久々に「彼」の単行本を見かけたからです。

安永航一郎

余談ながら、私の中で「野放し系」に分類される代表的な漫画家としては、上記の安永…と唐沢なをきが挙げられます。唐沢…などは、彼の作品を読むに、自らの趣味や面白いと感じるものを作品の中で展開しているように感じます。
あとは…、前二者とは趣きが若干違うかなぁ、という気もしますが、田丸浩史が挙げられるでしょうか。でも、彼の自身の日常を描いたエッセイ漫画(?でいいのかな)「最近のヒロシ」は、ラブやん以上に面白かったです。

さて、安永の話です。
彼のモチベーションは、自分の描きたいものを描くというところにあるようで、途中で、好きに描けず、いろいろと制約がかけられたりすると、途端にテンションが下がるのか、読む側からも、やる気が失せていっている?と感じられるという漫画家です。
実際、確か「海底人類アンチョビー」のあとがきだったかで、それと分かることを述べていたような記憶があります。また、こちらは何かあったのかは不明ですが、「火星人刑事」なんかも、どちらかというと、途中から極端にモチベーションが下がった?と感じるような作品だったような気がします。

他方で今回の「青空にとおく酒浸り」そして、「頑丈人間スパルタカス」もですが、徳間での連載作品では、かなり好きに描かせてもらっているのかなぁ、と感じます。
そういった自由度を考えると、よりマイナーな雑誌での連載の方が、面白いものを描いてくれそうな気がしますね。

商業誌で見かけない時期、どうされていたのかはあまり把握していないのですが、私がちょっと知っているのは、同人誌で「沖縄体液軍人会」の名で二次創作(私が知っているのは、「エヴァンゲリオン」の18禁っぽくない18禁)の同人活動をしていたことです。
まあ、18禁とはいうものの、擬音が「どっこんどっこん」だの、「ばっすんばっすん」という辺り、エロいというよりおもろいものになっていて、バカでいいなぁ(←褒め言葉)と思います。

この辺りの経歴を経たからでしょうか。
それまではあまり露骨に18禁描写っぽいものは描かなかったところ、今回の「青空に…」では、18禁寄りの描写も多くなったような気がします。
…経歴を知っているからそう感じるだけで(もとより服を脱ぐネタはしばしば描いていましたから)、実際のところはそうでもないかもしれません。
ただ、そこはかとない描写だったものが、より明確にそれを感じさせるものにはなった、…ような気がします。

描写と書きましたので、絵柄についても少し。
もともと画力が格段に高いという方ではないのですが(もっとも、私自身は彼の絵柄がかなり好きです)、今回の「青空…」においては、頭と体のバランスが悪くなってる?という印象を持ちました。…頭がでかい気がするんですね。

作風についても少し。
相変わらずの、妙なテンションの高さでのツッコミが顕著で、「勢いが命!」な作風ですね。
そして、そのテンションの高さに似つかわしい擬音。驚いたキャラクターの妙な手つき。そして、ボケに対するツッコミの言葉の妙(←こちらは、私が特に気に入っている、安永…らしさです)。…変わらないなぁ、と思います。

この辺り、否定的ではなく、肯定的に私自身は見ております。ですから、マンネリというのとは違って…、なんというのか…、そうですね。
古典落語のような、分かっていても別段構わない面白さがあるのではないか、と思うのですが、いかがでしょう。

すなわち、ある程度やることは読める、けれども、「お約束」をみる感覚、また、そのお約束のテンポというのか間というのかが面白い、ある種の芸を見ているかのような印象があるといいましょうか(作品内容は、全然落語ではないですけれども)。
…単に好みというだけなのかもしれません。いつもにも増して、あまり的確に言い表せていないような気がします。


ということで今回は、粗にして野だが、卑でもある。だが、それでいい、否、それがいい、ということもある、のではないか?という話。

 


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掌の上を転がされる快感-柳広司×霜月かよ子「Dの魔王」(2)- [漫画]

西村しのぶの造語なのかもしれないのですが、面食いならぬ「頭食い」というものがあります。
何度か書いたことがあるかと思いますが、私は顕著にその傾向が強いです。

その傾向を受けまして、そういう漫画作品もまた好きだったりします。
ここで、断っておきたいことがあるのですが、頭を使う作品というと、所謂トリックものなどが連想されるかと思います。ですが、私は、こういった作品をあまり好きではないです。

「名探偵コ○ン」であるとか、某「金田○少年の事件簿」とか…(両作品のファンの方、お怒りになられぬよう。あくまで、かなりひねくれたヘタレマンガヨミの一感想です)。
これらの作品、なんというのか…、頭脳の使い方が「小手先」な感じがして、もっと違うところに力を入れてほしい、とつくづく思います。もっとマクロなところで、頭の良さが伝わってくるような作品が読みたいなぁ、と思う訳です。

私の中では、古屋兎丸「Marieの奏でる音楽」のインパクトは凄かったです。作中にヒントはそこかしこに提示されているんです。確かに、その点が引っかかるんですが、それが何か分からない。
それで、クライマックスにおいて、それが明らかになったときの驚きといったらなかったです。


「Marieの奏でる音楽」は、置いておきまして。

また別に、私自身は、ものがたりがこの先どう展開するのか、足りない頭を回転させながら、先読みするのが好きだったりします。
ただ、その予想の上を行かれたり、予想しない方向への展開をみせられる爽快感、換言しますと描き手の掌の上で転がされるというのも、また面白く感じます。

「Dの魔王」は、まさにそんな感じで、私のような頭食い好みの作品ではないかと思います。
決して大笑いする類のものがたりではなく、しかしながら、ニヤリと陰険な感じの笑みを浮かべたくなる作品ですね。
…褒めてない感じになってますが、結構的確な褒め言葉ではないかと思います。

ご存じない方に、ちょいとあらすじを説明しますと、こんな感じ。
時は昭和12年、「魔王」と呼ばれる男、結城中佐の提唱に基づいて陸軍内部にある機関が創設された。特殊諜報員養成所、通称「D機関」。戦力の不足する日本が世界の列強を渡り合うためには、情報戦を有利に運ぶ必要がある。そのためのスパイ養成所。
情報戦を制するべく、このD機関からスパイが各国に派遣されていく訳ですが、ものがたりは、彼ら“D”のスパイの活動を描いたものになります。 


今回、「Dの魔王」について取り上げたのは、特に、今回の「ロビンソン」が、モロに好みの話だったためです。
まず浮かんだ感想ですが、「う~ん、上手いなぁ」ということ。

ちょいと具体的に、書いておきますと。
霜月かよ子の作画は、ソツのない感じで、抜きん出て「おお!」というものではないんですが、安定しています。少し手堅すぎる感もあるのですが、それがかえって作品に合致するような印象があります。
ものがたりは、ネタバレすると面白味に欠けてしまいますので、細かくは書きませんけれども、直接的には“D”から派遣されたスパイの一人の活動を描いたもので、それ自体面白いものなんですが、それだけではない話が終盤明らかになるところがいいですね。そして、「魔王」結城が語る最後の科白がいいです。

少しだけ、私個人が引っかかったところも挙げておきますと、P.126の「井沢」の顔のアップが描かれるのですが、…この表情かなぁ? というのが少し引っかかりました。
作画の霜月と私の感覚が合わなかったのだと思いますが、私自身はこの状況における「井沢」の表情はこうではないのでは?と思いました。ものがたりのクライマックスに当たるところですので、この点の引っかかりはちょっと残念でした。…私の読み込みが足りないからなんでしょうか…。

 


ということで今回は、転がされる快感と私が書いた場合、「お前、転がされるような体型してないじゃん。転がしたら折れそうじゃん」というツッコミは、自覚がありますので、別段必要ございませんという話。
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マンガ大賞と「海街diary」(3)と私の感覚 [漫画]

いまさらながらの話ですけれども、先日、マンガ大賞が発表されました。

大賞は、ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』だそうで。
私自身は、書店に並んでいるのを見かけただけで、読んだことはなかったのですが、内容の紹介を見るに、確かに面白そうな作品です。

…で、2位以下を眺めると、こんなラインナップとなっておりました。

2位:『宇宙兄弟』小山宙哉
3位:『バクマン。』大場つぐみ・小畑健

4位:『アイアムアヒーロー』花沢健吾
5位:『娚の一生』西炯子
6位:『虫と歌 市川春子作品集』市川春子
7位:『海月姫』東村アキコ
8位:『モテキ』久保ミツロウ
9位:『高校球児 ザワさん』三島衛里子
10位:『アオイホノオ』島本和彦

自分の購入対象となっていて、気に入っている作品が、4作(『宇宙兄弟』『バクマン。』『虫と歌 市川春子作品集』『高校球児 ザワさん』)入っていました。
数多の作品がある中で、ベスト10のうち購読率4割は、自分の感覚というのか、マンガに関するアンテナが面白いものに反応していることが確認できたようで、なんとはなしに満足です。
特に、「宇宙兄弟」は、単行本が出る前どころか、連載が始まった当初から楽しみにしていた作品でしたので、満足度がさらに割り増しです。



話は変わりますが、感覚ということに関連して。

多分に感覚的な表現になりますが、深く印象に残る作品など、深さであったり、重厚さを感じる作品には、軽く読み出せず、読み手であるこちらのテンションもそれなりに要求されるものなのか、少々集中をしてからでないと読み出せない、ような気がします。少なくとも、私はそうです(…何か、一度同じようなことを書いたような気がしますが、気にせず続けます)。

そういった作品を、私は好きではあるんですが、読むのに(初見は当然、読み返すのにも)ちょっと疲れるのが難だったりします。
私にとっては、吉田秋生(最近のものはそうでもないのですが、昔の作品に顕著です)、五十嵐大介オノ・ナツメ(オノ…は、前二者とは理由が異なるような気がしますけれども)。

で、何でいきなりそんな話をしたのかと申しますと、吉田の「海街diary」です。以前のエントリの予告の通りに、今回はこの作品について話をしてみます。
どんな作品か、あらすじなぞを申しますと、鎌倉の古く大きな家に住む四姉妹を描いた作品で、彼女たちの日常のちょっとしたこと(といっても、重い物事のことも、ままあったりします)を通して、思うところ考えるところを描いた作品になります。

この作品、キャラクターがとある物事に出くわした際に、なにかを思い、その内面がナレーション的に描かれることが多いのですが、この表現というのは、ものがたりが日常を描いた作品であることとあいまって、作者自身の物事全般について考え方、それも大きなひとつの何かについての考え方というのではなく、日常のちょっとしたことから大きなテーマになるような物事に至るまで、かなり広範にわたる考え方がちらほらと垣間見えるような気がします。
そうなりますと、作者の持っているものであったり、その人の深さが、作品の面白さに大きく反映するように思います。

それで、この作品が面白いと感じられるということは、吉田…の漫画家としての力量が優れている、ということになるのではないかと思います。

もっとも、今回この作品を採り上げたかったのは、別の理由があります。
別の理由というのは、全くの私事なのですが、今回収録されている話の中で、珍しく作品に深く入り込んだのか、ぱあっと記憶を呼び起こされる経験をしたためです。
ものがたりを読んで、そう感じたのは本当に久しぶりだったので、そのことをつい書きたくなりまして。

どの描写かといいますと、鎌倉の夏の描写です。
その暑さ、色、匂い、自転車で駆け上った上りの坂のキツさ、その後の下りの風を切る爽快さ、もう何年も味わっていないのですが、また味わいたい、好きな感覚です(いや、実際に始めると、途中キツさにうんざりすることもあるのですが。後で思い返すと、それはかなり忘れていて、いいところだけ思い出すんですよね)。

…何か、この辺り、似たようなことをどこかで書いた気がします(お気づきの方は、その辺りはスルーしてください)。

同時に、この感覚、誰かと共有したい、などとも思ったりしました。
…あ。

念のために書いておきますと、今回の「この感覚、誰かと共有したい」、私がしばしば書いている(←最近はご無沙汰しておりますが)恋仲になる女性を募集するとかそういう意味ではなく、本当に、単純に誰か(老若男女不問で)と夏の鎌倉めぐりをしたいなぁ、と。
何で、言い訳じみたことを書いてるんでしょう、私。

ということで今回は、感覚ということに関連する話題を2つほどしてみましたが、さほどまとまりはないです、という話。


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忘れた頃にやってくるモノ [漫画]

それは、懸賞の当選品。 

以前、書いたことがあったかと思いますが、私はクジ運というのか、懸賞運というのかが微妙に良い、らしいです。
らしいというのは、実際のところ、あまり実感はないからなのですが。
ただ、確かに、頻繁ではないにしても、忘れた頃に懸賞やくじの類にちょくちょく当たることがあるので、そうなのかもしれません。
もっとずば抜けて運がいいと、実感もできそうなのですが、あまりドカンと大きな当たりを引く訳でなく、ちまちましたものが当たるだけなので、正直当たると言っても、微妙です。

それはさておき、先日のこと。
普段、ほとんど不要なチラシライフラインの使用量のお知らせ以外に入っていない郵便受け(…書いていてちょっと悲しくなりますが)に、手紙が入っておりまして。

…多分、何か懸賞だかに出したんだろうけど、なんだったっけなぁ? 出してから間が開くから、忘れるんだよなぁ。
などと思って開きましたところ、昨年11月から12月にかけての岩岡ヒサエの単行本がまとめて出た際のキャンペーンのものでした。

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これです。
絵葉書の9枚セット(画像は、うちお気に入りの一枚)。ちなみに、単体でも絵になっていますが、9枚で1枚の絵にもなっています。可愛くていい感じです。

で、これらを眺めつつ思ったのは、「そういえば、これじゃなくて、講談社のキャンペーンにも相当数応募したけど、あれに当たってくれないもんかなぁ。というか、より切実に、あちらの方が当たって欲しい!」ということ。
ちなみに、講談社の方の当選商品は、図書カード(1万円分)
…俗物ですみません。でも、結構かかるんです、私、漫画を買うお金。

開き直っていってしまいますと、
それだけ漫画を買っているんだから、その分ご褒美というのか見返りというのか、出て行く一方ではなく、帰ってきてもいいんじゃないか?
と、そう思うわけです。…なにせ、貧乏なものですから。

ということで今回は、なんだかんだいってもやはり嬉しいもので、懸賞ゲットだぜ!という話、もしくは、懸賞に当たった嬉しさよりも、金銭的何かを求める辺り、貧乏臭さと卑しい感じが浮き出てしまっていてお恥ずかしい話を書いてしまいました…、という話。


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(経済的)騒乱再び?-「犬狼伝説20周年エディションBOX」に関連して- [漫画]

人様からすると、本当にどうでもいい話なのですが、私は、フィギュア(あ、時節柄イメージされるスケートの方ではなく)等の、所謂立体モノに対する趣味はあまりありません。漫画をやたらと読んでいると、フィギュア等に対する趣味もあるように思われがちですが、そんなことはなく。

結構前からこの傾向はありまして。
大学の頃、説明が面倒なことも手伝って、自己紹介文のようなものを書くに際して「二次元の人」と書いたくらいです。
これは、私がその当時漫画や映画への傾倒が著しく、そのどちらも二次元(最近映画は3Dがはやっているようですけれども)であることから、そのように説明したものです。
…まあ、私の容姿はその当時からひょろひょろだったので「一次元(=線)の間違いじゃないの?」とツッコミをいれられたりしたのですが、それはそれとしまして。って、私は線け?線なのけ?

…気を取り直して。
とまあ、少なくともその頃以降(それ以前は人並みにというか、プラモデルを作ったりしていました。接着剤が必要だった頃のソレです。パテで接合部の継ぎ目を消したり、塗料で色塗りとか、ちまちまやってましたよ、ええ)は立体モノに対する執着などはさしてない私なのですが、一部というのか、3点程例外もあります。

まず第一に、士郎正宗「アップルシード」に出てくる、ギュゲス(かつダミュソス・システムついてない、確か、最初にデュナンが乗った、全体的に何か丸っこい奴)。私が、中学生の時分だったか、ガレージキットになっていたように思います。
その当時(まあ、今もですけども)、それを作り上げる腕も、購入するだけの経済力もなかったのですが、「ものすげ~欲しい!」と心底思った一品でした。
…今でも入手できるものなんでしょうかね。

もうひとつは、ミスター・ドーナツポン・デ・ライオン

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呼んだ?

このポン・デ・ライオン、私にとっては「キャラクターが入っているグッズならそれでよし」とする訳ではありませんで、立体モノでないと魅力を感じません。結構、絵のものもあるんですけども、そちらは別にいいかなぁ、と思います。

そして、もうひとつは、「犬狼伝説」プロテクトギア

ということで、今回はこれです。

protectgear01.jpgprotectgear02.jpgprotectgear03.jpg 

犬狼伝説といえば、やはりこのフレーズが印象的ですね。
銃をもって立ち塞がる者あらばこれを撃て

金がないと言いながら(いや、口先だけでなく、本当に、心底貧乏なんですけども)、かつ、ものすごくディープな犬狼ファンではなく、かなり緩いライトなファンのクセに、…やっちまいました。
「犬狼伝説20周年エディションBOX」に同梱されたプロテクトギアのフィギュアになります。
人間心理についてだったか、期間であったり数量だったりを、「限定!」するモノに弱いなどといわれることがありますが、本当にそんな感じ。
「今買わないと!」「買わないと…、なんなんだ?」と、傍目には思うのですが。私自身、自分にとって興味のない限定モノに対しては、当然ながらこのスタンスです)という奴ですね。

買って悔いはないのですが、ちょっと残念だったのは、フィギュアが思ったより小さかったことでしょうか。
もっとボリュームのあるものを予想していたのですが、案外こじんまりしてました。
それでも、かなり満足です。

…以上、オチは別段ありません。
ということで今回は、「あまり立体モノに興味ないんですよ」といいながら、エントリ一本分書ければ十分じゃね?というツッコミは…、あると思います!という話。


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