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8/8 さいとうたかをと夏目房之介のトークについての覚書 [漫画]

まとまりのない、事実の羅列のようなもので、かついつもの文章とは文体が異なりますが、興味がある方は御覧になって下さい。
前回のエントリの、14:00~15:40の、トーク及び質疑応答についての話を羅列したものになります。

以下の文章で、青い文字のところは、(私の記憶頼りという、はなはだ怪しげなものですが)さいとう・たかをの言葉を抜粋したもの、赤い文字は夏目房之介の言葉を抜粋したものでして、そのようにお読み戴ければ、多少読みやすいかと。


まずは夏目から、さいとう・たかをのキャリアの始めである、貸本の話を皮切りにして、マガジンで’67~’70に連載していた「無用ノ介」について。

少年誌は、その名の通り、少年(主に、小中学生)を対象としたもので、一定の年齢に達すると少年誌を卒業する。
「無用ノ介」は、この「卒業する人をとどめるため、対象年齢が高めの作品を」ということで始まった、という。

この辺りの話の中で、さいとう・たかをが意識していることについて語られていた。
彼は、マーケティング・リサーチ等をすることで、「より売るには、どうすればいいのか?」という意識を持っている、という。
さいとう・たかを曰く、自分はこの意識を「商業」誌の漫画家なら当然持っていると思っていて、他の漫画家は何故この意識を持たないのか不可解だった旨述べていた。…最近になって、自分のこういった意識の方が少数派であるということに気付いた、とも。

他の漫画家の多くは、「自分は、こういうものが好きで描いている。私の、こういう作品が好きな人が読んでくれればいい」という、より作家性というべき意識が強く、商業的な意識は、あまり強いものではないそうで。

(私見)
この辺りは、多くの漫画家は、創作するという意識が強いため、作家性が強くなるように、個人的には思う。
一方、さいとうの意識は、自身を「創作」する作家というよりは、作品を分業でもって「制作」するというものと考えているから、ではないかと思う。
また、「人から金銭を得ているプロであるなら、前述の『より売るには』という意識が必要なのでは」という、商業作家であるなら、商業的意識を持つべきだ、という意識も、含まれているように思う。
この、さいとうの商業的な意識というのは、話が変わったところでも出てきていて、漫画家で、人気が出てくると、やたらと休載が増える人がいるが、求められるようになって休むようになるというのは、漫画界以外の社会では、ありえないのではないか、という旨述べていたことからも窺える。

上記の、さいとうの意識であるが、ここで注意しておきたいのは、さいとう・たかをは漫画を、仕事と割り切っていやいや描いているのかというと、そんなことはなく、漫画好きなのである、とは夏目のフォロー。
意識が作家というよりも、プロデューサーであるとか、商業的な意識が強いから、そのようになるということのようである。

また、「無用ノ介」に話が多少戻って、「無用ノ介」という作品は、ロマンティシズムが強いそうで、これに感情移入が強くなり、描きにくかった旨、述べていた。

私のごとき浅いマンガヨミからすると、さいとう・たかを=ゴルゴという意識があるから、意外に思うのだが、さいとう・たかをは、ロマンティストだそうで(夏目の言にあったかと思います)、それで、感情移入してしまって描きにくくなっていったそうで。

そして、その対極にあるのが「ゴルゴ13」で、さいとう曰く、「この作品は、例えるなら『ゴルゴ』という、言うことをよく聞いてくれる聞き分けのいい役者と、自分という監督との作品」であり、過剰な感情移入を排して、引いた視点から描けているようである。


話を変え、サンデーでは、「サバイバル」について、多少語られていたが、「無用ノ介」のように、話があまり膨らまなかった印象があった。

また、少年誌ということで、さいとうの作品の中で、「もっとも少年漫画らしい」少年漫画は、さいとう曰く「バロム1」という話をしていた。
その「バロム1」についての説明は、夏目がトークの中でしていた。

…この「バロム1」、少年二人の友情の力でもって、一人のヒーローに変身して悪を倒すという、なんとも面倒くさいヒーローなのである(ちなみに、少年二人がけんかしていたりすると変身できない…)。
(夏目による、まとめの言を借りると)この不条理さを含みつつ、友情の大事さを語る辺りが、少年漫画らしい、ということのようである。

ヒーローという言葉が出てきたからか、「ザ・シャドウマン」についても話が及んだ。
シャドウマンというヒーローも、なかなかに特異な位置にあるようで、その容姿がヒーローらしくないのである。ここで、さいとうは黒人の肉体の美しさへの憧れから、このヒーローの造形となった旨、述べていた。

(私見)…確かに、ここ数日、スポーツのニュースでその名前が頻繁に上がっている、世界陸上のウサイン・ボルトなどを見ると、「日本人は、そこに到達できるのだろうか?」と感じられ、さいとうの憧れというのも、分かる気がする。

また「デビルキング」の作品のテーマとして扱った「科学文明批判」という、当時はあまり意識されていなかったテーマ(それゆえ、当時は全然反応がないというか、ウケなかったそうな)などに触れ、夏目は漫画の作業の分業制や商業的意識と併せて、さいとうの先見の明というのか、早すぎる意識ということでまとめていた。


「サンデー・マガジンのDNA」展に関連するトークとして、サンデーとマガジンとの対立関係について、夏目が話を向けていたが、さいとうとしては、そちらにはあまり意識・関心がなかったようで、この辺りのトークはあまりかみ合っていなかった印象だった。

ここで、夏目は漫画史的な話を展開。
サンデーは「漫画はあくまで少年や少女に向けた、子供のためのもの」。ゆえに、転換を図ったマガジンにみずをあけられていた。
このような流れとしては、マガジンの講談社から、少年誌を卒業した者=青年に向けた漫画誌が作られる方が自然であるのに、何故かこの状態から、小学館から1963年に「ボーイズライフ」が創刊されるという現象が起きた。
これは、ある種のねじれが生じているのだが…
、といった話。

ここで、小西湧之助という、小学館の当時の編集の方の名前が挙がり、この方が青年向け漫画=青年誌の創刊に多大な影響を及ぼしたと考えられていたのだが、小西本人は、実際のところ、小学館の伝統的な「漫画はこどものためのもの」という意識の持ち主であり、青年向けに雑誌を創ろうとしたのは、当時の社長だった…とは、さいとうの言。

これに関しては、夏目も知らなかった話のようである(ちなみに、さいとう本人も、最近まで知らなかったそうで、「青年誌の創刊に尽力してくれた小西には恩があると思って、執筆に関して、結構無理を聞いたのだが、実際には小西ではなかったと、最近になって知った。恩があると思って無理をしたこともあったのに…」という旨、(冗談交じりの愚痴を含めつつ)述べていた)。

また、その後「ビッグ・コミック」も創刊され、これについてさいとうは、「いかにも小学館らしくビッグネームを揃え、『絶対にある程度は売れることが期待できる』という、手堅いつくりで作られていた」旨も、述べていた。


さいとうが早くにはじめた分業制について。
さいとうの「漫画(特に週刊ペースのそれ)は、一人で作れるものではない」というのは、現場をよく知る者の言で、重みがある。しかも第一線で、これだけ長く続けている方であり、加えて、「ゴルゴ13」などは、休載がない=休みがないということで有名である。 

(私見)この辺りを聞くに、私は、さいとう・たかをという人は、自分にできることについても、リサーチというのか、分析する人なのかなぁ、という印象を受けた。
それまでの話などと併せて考えるに、全般について、「一歩引いて見る」という視点を持っているような気がする。この視点が基点となって、基本、作家性の強い多くの漫画家と異なり、商業的意識が強いため一見漫画に対して冷めているような印象を与えるのも、また、分業制についても自身がプロデューサーというのか、統括する位置づけに近いのも、この辺りが影響しているのかなぁ、とも思った。

分業制の話を続けますと。
一人で作れるものではないというのは、具体的には、脚本であるとか、作画であるとか、プロデューサーであるとか、監督であるとか、それぞれ、才能の異なる分野のものである。
無論、それらをすべて備えた個人など、余程の天才でない限りいるものではない、と。

また、プロデューサーという立場についても言及があり、この辺りは、編集者がそれに該当するものであるのだが、これは、会社から給料という保護を受け、安定した者、会社の側に属する者では、立場の不安定な漫画家との間で、作品に描ける熱意に差が出てくるというか、真に優れた作品をプロデュースできないのではないか、と言っていた。
独立したフりーのプロデューサーの存在が必要である、ということである。

(私見)この辺り、少し流れが存在し、浦沢直樹とのコンビで有名な長崎尚志がこのような位置に存在しつつあるのかなぁ、と思う。今後、こういった人が増えていくのだろうか。


あとは…、さいとうがふと思い出したように、「原作」という言葉の問題について触れていた。
「原作」というのは、通常、もととなる作品をいうのであって、そういった世に出た作品がない、脚本や設定のようなものまで含めて漫画界では「原作」という言葉を使っているが、「原作」という言葉がもともとないならともかく、ある言葉を転用して、本来的にない意味まで含めて使っているのはいかがなものか、と述べていた。

この原作という言葉、梶原一騎(梶原は、漫画の原作担当のほかに、作家としての活動もしていた)が影響しているのではないかとも。

それで、「原作」という言葉ではなく、別の言葉を使うべきなのではないか、という旨(と併せて、夏目さんに、「適当な言葉を考えて下さい」と)述べていた。

これに対する夏目の返答。
これは、脚本を担当しているものと作画を担当しているものと大きなトラブルが生じていないので、表立っていないので、いまのところ問題となっていないが、トラブルが生じた際に問題となるのではないか、と。

(私見)この辺りを聞いたときに、いがらしゆみこの「キャンディ・キャンディ」で、この辺りの問題が生じてなかったっけ?と、思い出した。
「キャンディ…」が、実際のところ、原作がどういうものであったのか、私は知らないが、確かに「原作」というと、かなり重きを担っている印象があるのは事実で、実際と印象がもし異なるものであったとしたら、おそらく訴訟などの問題が生じた場合、さいとうが危惧するような問題が生じてくるように思う。

確かに、一般的な意識としては、「原作」というと、かなりの重みがあるが、漫画における「原作」という場合、設定の提供も「原作」という場合があり、それで、トラブルとなって裁判にでもなった場合、すべてをひっくるめて「原作」というと、混乱を招くのは必定だろう、と思う。

梶原一騎の名前が出たので脱線して、さいとう・たかをと梶原一騎の不仲の噂についても話が及び、その真相を、さいとうが話していた。


他に、これからの漫画雑誌についても(この辺りの話題も、「サンデー・マガジンの…」展のトークということを意識してのものだったのだろうか)話が及んだ。

さいとうの予想としては、

1.現在のような、総花的な雑誌は衰退する。
2.デジタルコンテンツ(の中でも携帯で見る形)へ移行する。

ということを述べていた。

(私見)1の方は、さいとうが言うには、「一品料理が食べたいのに、フルコースを出されても…」ということで、読みたいもの以外は要らないのであるから、そのような流れになっていくだろう、という趣旨の発言である。
確かに、雑誌の売り上げの減少は、最近とみに言われていることで(単行本派も増えてますし)、また、時代劇限定の雑誌などもあることから、ジャンルを限定する方向に向かっているとも考えられ、なるほど確かにそうだなぁ、と。

一方、2は、具体的に言うと、今のように、もともと紙媒体で出されたものからの転用では、縮小がかかって読みにくいものになるので、そうではなく、最初からそれ用に描かれた、より読みやすい形で、読むものになるのではないか、というのが、さいとうの予想である。
…であるのだが、こちらは、そうかなぁ?と、疑問がないでもない。解像度とか、画面の大きさそれ自体を考えると、こちらが主流になると、漫画自体衰退しそうな気がする。今のWEB漫画などは、私自身は、読みにくいと思うし、何か、充実感に欠ける印象があるので。

ただ、さいとうの言うように、かさばる紙媒体は衰退していく、というのは、確かにそうかもしれないと思った。
マニアの蒐集対象になっていくような印象は、私自身が漫画に埋もれたような部屋に住んでいるので、余計にそう思った。

 


話は変わって、最後の辺りの話では、貸本時代の原稿を目にするのも嫌だったようで、原稿を切って読者プレゼントにしたという話も出ていた。
…今ではありえないような話だが、これは結構あったようで。
実際、あだち充も、自身が貸し本の読者だった頃、原稿の切抜きを集めていた旨描いているし、トークでも夏目がさいとう以外の作者の方の原稿だが、持っている旨述べていた。


 で、その後、質疑応答をいくつか行って、トークイベント終了、と相成りました。


さいとう・たかをが、エンターテイナーというのか、話の上手い方だったということもあり、非常に楽しい催しだったのですが、ちょっと気になるところもないではなく。

ひとつは、「さもありなん」と思いましたし、トークの最中だったので、いちいち文句は付けませんでしたが、撮影について。
こちらの文章を御覧の通り、画像が付いていないことからお分かりかと思いますが、トークは撮影禁止でした。
ただ、私は、会場で「さて一応取っておこうか」という段になって、注意を受けただけで、事前に何の注意も聞かされていませんでした。
加えて、実際、他の方で撮影されていた方もいらしたようなのですが、何故か、会場で見ていて、撮影について注意されたの、私だけだったような気が…。撮影をしていたのは、関係者の方だったんでしょうか…。携帯でとっているような方もいたので、関係者とも思えない方もいたようなので、この辺りの不徹底ぶりは微妙に納得いきませんでした。

もう一点。混乱防止のため、番号を振った整理券を配付して、入場をスムーズにしようというのは結構なのですが、集合が微妙に早すぎです(40分前に集合)。結構待たされた感がありました(し、その時間に来ていなかった人も多く、時間を守った人が馬鹿を見た感がありました)。
また、完全に番号順(1、2、3…)に入場、のように当初言っていたものが、途中から、21~30番の方と、10人単位に区切っての入場に唐突に変更されていたのも、…なんだかよく分かりませんでした。

…憤りまで感じるというのではないですが、上記の点、運営に多少問題があって、基本かなり短気な私なんぞはちょっとイラッとしました。
こういった催しが初めてという訳ではないだろうし、もう少し案内の徹底や入場に関する進行を、事前のリハなどを行うことで改善していただけると、個人的には嬉しいです。


ということで今回は、楽しさが伝わらない文章で、申し訳ないですという話。
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