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「ザ○とは違う、のか?」と、旧○クはつぶやく [アニメーション]

昨日は、七夕でしたか。…まあ、私をご存知の方でしたら、予想通りと思いますが、私の織姫はどちらにいるのか分かりませんで、会えず仕舞いでした。

天の川の対岸を眺めるに、川幅が広く、対岸は霞んで見えませんでしたので(涙で霞んでいたのかもしれません…)、どちらにいるのかよく分かりませんでしたし、それでもともかく川を渡ってみるに、やはり、川幅のせいか、渡った所が予定した所と大幅にずれてしまったのか、渡った先には、待ち人はいませんでした。
今年もそういう悲しい七夕でした。


さて、時節に沿ったネタはさておきまして、本題。
私自身は、まったくそう思っていないのですが、私のものがたりの読み方、特に漫画の読み方は、人様とちょっと違う、らしいです。

「らしい」というのは、前置きしましたとおり、私自身に自覚がないためで、どこがどう違うのか、人様から「違う」と指摘されても、どのように違うのか、いまひとつ分からなかったからです。
が、先日、「大正野球娘。」なるアニメーションを見かけるに、「…こういうところ、なのか?」と、少し思い当たるところがありましたので、ひとつ、その辺りについて書いてみましょう。
直接に漫画ではなく、アニメーションなのは、ちとなんですが、「ものがたりの読み方」という点において、共通点がありますので、まあ、その辺りは目をつぶって戴ければと思います。


「大正野球娘。」、さわりを申しますと、こんな感じ。
舞台は1925年(大正14年)。主人公の娘さんである鈴川小梅は、14才で女学校の2年生。同級生の娘さんの晶子に誘われて、野球をすることになって…、というのが導入部分になります。

なんというのか、これだけ書きますと、女子野球ということで、第二次大戦中のアメリカにおいて行われた女子野球を描いた映画「プリティ・リーグ」(この邦題タイトルを書くに、いつも原題の“A League of Their Own”の方が、素敵なタイトルだと思います)を思い出しますね。
マドンナはどうでもよかったんですが(というか、別の女優さんでよかったのに、と思います)、結構好きな映画です。

閑話休題。
「大正野球娘。」、これだけの情報から、私の場合、何が気になるのかと申しますと、「1925年」という年の設定です。
タイトルの「大正野球娘。」からは、別に、大正時代であればいいはずです。にもかかわらず、この作品は、設定を何故か1925年である旨、言及しています。

何故、この辺りをぼやかさずに、1925年としているのか? と、考えてみるに、翌1926年は、昭和元年です。なので、この作品は、わざわざ「大正」と銘打っていることから考えるに、昭和に年号が変わる、長くても1年余りの期間を描いた作品なのではないか? という推測ができます。
また、女学校の学制が短い科ですと2年制であることから、卒業が関係しているのかもしれません。
さらに、年号の変動やらなにやらで社会情勢が変化して、その途中で野球部が解散するとか、そういった展開が予定されているのか? という推測もできます。

そして、さらに考えてみるに、通り一遍等な考えかもしれませんが、大正時代というと、「大正デモクラシー」などという言葉から、民主化が進んでいた時代という印象があり、一方で昭和は、その反動、ということではないですが、軍国主義化という印象があります。とすると、大正から昭和へ移り変わる際に、そこで暗い何かがあるんだろうなぁ、と。

もうひとつ、別に考えられるのは(上記と択一的なものではなく、並存しうるものです)、主人公の娘さんたちが、大正生まれではないものの、その時点における人生のほとんど大正時代を生きているということから、明治ではなく、大正時代の考え方に染まっている世代として、ギリギリ大正時代であってかつ女学生である(やはり、時代からして、女の子が野球という、奇抜なことをすることからして、新たに女学校に入学したのではなく、多少落ち着いた2年という辺りが妥当なんでしょう)年というのが、ちょうど1925年くらい、ということになのかもしれません。


…私は、別に別段意識しないでも、こういうところが引っかかりまして、そこを適当にうがってみて、こうなるのでは?などと、テケトーに予想しながら見たり読んだりするのが好きなんですが、…こういう見方は、普通しないものなのでしょうか。

いや、だってですね、タイトルで「大正」って言っているんですから、「時は大正…」ってことで、別段年を指定する必要はないわけで、これをあえて限定するということは、そこに作り手の何らかの意思が入っているということではないか?と思うんですね。
うがってみるというより、作り手が、そういったサインを出しているんだから、それは拾ってみるでしょう?と、申し上げたいわけです。

この「作り手の意思を拾う」という意識が、多少強いので、人と違うように思われるのかなぁ、と。

 


ここで、話を漫画の絵に関する話にシフトさせます。
やはり、ここでも「作り手の意思を拾う」というのか、描き手の意思を推測するという楽しみ方を、私は結構することがあります。

私なんぞに言われなくても分かる話なのですが、絵とカメラで撮った画像の大きな違いのひとつは、主体の意思の関与の程度ではないか、と思います。

どういうことかと申しますと。
カメラで撮った画像は、確かに撮り手が撮ろうと思ったものが表されます。ただ、撮り手が意識しないものであっても、そのフレームに入ってしまえば、画像に写り込むということがありえます。例えば、あるアングルから風景を撮る際に、電柱が邪魔だと思っても、それは画像処理を施さない限り、画像に入ってしまう、ということです。

他方、絵というのは、その主体である描き手が意図して描かない限り、紙は白いままで、決して何も表されません。先の電柱を例にすると、邪魔だと思えば電柱を描かなければいいだけです(余談ながら、邪魔だと思っても、写実的に描こうとして描くこともありえますが、それもまた、描き手の意思に基づくものです)。
この描き手の意図を逆にいいますと、描かれたものには、なにかしら描き手の意思が表されている、ということがいえるように思います。

このように、絵というものは描き手の意思が表されたものですから、漫画の絵は、それ自体、描き手の意思の塊な訳です。この理屈からすると、その絵から、意図を探るということもできるはず、です。
私は、この意図を探るという作業が、人の頭の中を透かして見るような気がして、ものすごく好きでして。

漫画において、描かれた絵からその描き手の意思を推測したり、考えた上で描かれたことが感じられる絵をみるのは、面白いです。
ものがたりをひとつ掘り下げて理解できたような心持ちが、私なんぞはします。それは気のせいですか、そうですか…。


ということで、なんともまとまりがないですが、唐突に締め。
今回は、こういう読み方をしてもいいじゃない、私だもの、という話。
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