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その男にあるもの ―和田竜「のぼうの城」― [思ったこと]

どうでもいい話なのですが、先日まで、TVで見るたびにひっかかる表現をするCMを見かけて、やたら気になっておりました。
何かと申しますと、綾瀬はるか、いう方(有名なんでしょうけれども、私、芸能人詳しくないもので、ご勘弁の程を)が主演している映画の「僕の彼女はサイボーグ」のCMです。
CMですから、作品の細かい内容が気になるというのではなしに、CMの最後の煽り文句がいつも気になってたんですよね。

ここで、先に定義を明らかにしておきますと、

サイボーグ【cyborg】
宇宙空間や海底などの特殊な環境に順応できるように、人工臓器でからだの一部を改造した人間。改造人間。(大辞泉より)

あくまでも、人間、なんですよね…。
なのですが、煽りでどのように言っているのかと申しますと、要は、主人公のひとりである、サイボーグであるところの綾瀬はるかの作中の、もう一人の主人公の男性に対する感情は「これは愛なのか、プログラムなのか」と言っているんです…。
感情がプログラムに基づくか否かが問題になりうるのは、サイボーグではなしに「アンドロイド」ではないか、と思うんですけど。

「攻殻機動隊」でいうところの、「ゴースト」の有無で、サイボーグとアンドロイドは根本的に異なる存在なので(もっとも、「攻殻…」では、人形遣いの存在で、生命と非生命の境界があいまいになっていきますけども)、言葉はきちんと使っていただきたいなぁ、と思ったりする訳です。

ん~、ただ、これってぇのは、単に、タイトルかコピーをつけた人間が、言葉の定義をよく知らなかっただけ、だと思ったんですけど「気になる人は、作品を見てね」という宣伝なんでしょうかね? 

とまあ、マクラはこのくらいにいたしまして、今回は、最近読んだ小説について書いてみようかと思います。


その作品とは、和田竜(わだりょう)「のぼうの城」(小学館)になります。 表紙イラストを、オノ・ナツメが描いているので、マンガヨミの方は、書店で並んでいるのを目に留めたことがある方も、結構いらっしゃるかもしれません。

私自身は、択一の前には購入していたのですが、はまって、試験が手につかなくなるとなぁ…、と思って自重しておりましたが、正解でした。
試験前に読んでいたら、かなり、はまっていたことだろうなぁ、と思います。いや、読むのに時間はさほどかからなかったんですけども、余韻に浸ってしまって、数日、部分的に読み返したりしてしまう、という意味で。

粗筋なんぞを少し書きますと、こんな感じ。

ときは、織田信長の死後8年程経った頃。秀吉は関白となっていて、最後の大仕事といってもいい、小田原攻めにかかる頃のことの話。
その秀吉の小田原攻めに対して、北条方に与した側の成田氏を中心に、小田原の支城の一つで、成田氏の居城である忍城の攻防戦を描いています。攻め手の大将は、こちらは有名ですね、石田三成。守り手の大将は、成田長親なる人物。
で、ものがたりは、守り手の成田氏側を中心に描かれています。

「のぼう」とは、聞きなれない言葉ですが、何かと申しますと、主人公である成田長親の愛称(?)「のぼう様」からきています。その「のぼう」とは「でくのぼう」の略。
この主人公の成田長親、略さずに「でくのぼう」と呼ばないだけマシくらいの、かなり箸にも棒にもかからないような、そんな御仁と、領内の家臣はおろか、領民からも思われています。
…思われている、というより、領民は、陰でささやくのでなしに、本人に対して直接「のぼう様」と言ってます。

で、当人はそれを気にするふうでもなく、この辺りで、この主人公、なにやらぼぉ~っとした感じが窺えますね。

で、感想。
状況としては、大軍に押し寄せられた、圧倒的な戦力差がある絶望的な籠城戦ですから、非常に先行きが暗いはずであるのに、全編通して、のどかというのか、非常に明るい作品に仕上がっています。
主人公が、なんとはなしに能天気で、張り詰めた雰囲気を緩和させているからかもしれません。

個人的には、佐藤賢一「傭兵ピエール」辺りと、若干印象がかぶります。
暗めの作品にもできるのに、登場人物たちがユーモアを忘れず、全体的に明るいんですよね。こういう作品、非常に好きです、私。

また、攻め手も、守り手もキャラクターに味があっていいですね。名束正家のような嫌味なキャラクター、三成のように、真っ直ぐすぎて、若干面白みに欠けるキャラクターもいるのですが、それが、なんというのか、いかにも「らしく」て、にやにやしながら読み進めておりました。こういう人物だったんだろうなぁ、という説得力があるような、そんな感じです。

描き方についても。
主人公であるところの「のぼう様」、彼の思考等は、基本的には、直接に描かれません。主に、その周囲にいる正木丹波守(以下、丹波と表記します)の目を通して、描かれています。
あ、もっとも、のぼう様は農作業がものすごく好きで、それに加わることを喜びとしているのは、非常によく分かるように描かれていますけれども。しかも、絵に描いたような不器用さで、農作業に加わられる農民は、本当にいい迷惑だったりする旨まで描かれていたりしますけれども、それ以外は、判然としません。

ただ、元来、表情に乏しい容姿をしていることもあって、昔からの知己である丹波の目からも、何を考えているのか分からない、そんな御仁なので、終始、「何を考えている?」とばかり、考えられています。
結局のところ、のぼう様の思考は、ろくに最後まで描かれないのですが、ここがミソなのかもしれません。思考が分かってしまうと、面白くもなんともない、そんな話になってしまうように思います。

単に、何も考えていない、愚者なのか、それとも何か別のものが見えているのか…。それをどう受け取るのか…。それは、作品を御覧になって戴いて、考えていただければ宜しいかと思います。

他に思うところとしましては、攻め手の大谷吉継と守り手の丹波が非常に似た役回りになっているように感じます。
個人の武辺一辺倒の「筋肉馬鹿」っぽい感じではなく、武将としての能力に秀でていて、軍のトップ(三成や長親)を補佐する役回りで、武将としてのバランスの良さを感じますし、また、どちらも好漢(大谷吉継などは、作者が特に贔屓にしているようにも感じられます)として描かれているのも似ていますね。双方の考え方の、常識というのか基準点・水準点になっている、というのもあるかもしれません。

この、大谷吉継と丹波の類似については、もともとキャラクターの配置からの類似以上に、作者が意図的に、あえてそうしたような気がしますね。
それによって、大谷吉継は、丹波のような武将となることを予期させたかったのではなかろうか、そのようなことを思います。


少し、作品を離れて、歴史ものについて、思うところなども。

私は、史実を通して描かれる歴史物の面白さというのは、ひとつには、史料ではどうしても埋められない部分を、いかに面白く埋めていくのか、ということにあるのではないか、などと思います。
史料から読み取った人物像を、いかにそれらしく、納得いくようにするのか、ということとも換言できますでしょうか。

それで、この「のぼうの城」という作品は、結構典型的なキャラクタライズをしているきらいはありますけれども、史料では埋められないであろう部分を、かなり面白く埋められたように思います。
そのような訳で、作品を御覧戴いて、キャラクターの活きの良さを実感していただければと思います。


ということで、今回は、その男、武芸に秀でず、軍略についての知識なし。されど…、という話。
蛇足ながら、一昨日、本屋を眺めたら、和田竜の新刊が出てました。…近いうち、購入すると思います。

以下は、「のぼうの城」のネタバレな話(でもないかもしれませんけれども。実際、あまり本編とは関わりのない、余談が主です)になりますので、それでも構わん!という方のみ御覧下さい。

 

まあ、読めば分かることですが、この忍城の攻防で、圧倒的な戦力差を埋めて何とか一定期間、数ある支城のうち、小田原落城までの間、唯一、城を守りきった主人公の長親には、いわゆる将器、将としての才能があるのではないか、ということは分かるかと思います。

ということで、余談では、少しこの辺りについて、適当に思いつくままに書いてみようかと思います。


この将器・将才というもの、これは、いかに育成するのか、その手法が、現在においても、いまひとつ判明していないもののようです。
これに対して、参謀のようなものは、育成システムを組むことはできるようでして。
この辺りに興味がある方は、多少、渡部昇一の書いた「ドイツ参謀本部」に記載がありますので、そちらを御覧になってみてはいかがかと思います。

ちなみに、私は上記「ドイツ参謀本部」と、司馬の「坂の上の雲」とを何故か、立て続けに読んだためか、大モルトケが日本陸軍に与えた影響や、何故、日本軍は日露戦争時に、旅順の要塞攻略で苦戦したのか(確か、当時の最先端のドイツの理論を採り入れたのは良かったのですが、まだ完結していなかったため、要塞攻略についての理論が出来上がっていなかったとか、なんとかという話があったような…)等、双方をより楽しんで読めたように思います。

話を戻しまして、将器・将才といいますが、これもタイプがあるようで、完全に一個人で将として完成しているようなタイプもありますが、そうでないタイプ、「のぼうの城」における長親のようなタイプもあります。

前者のタイプとしては、有名なところでは、ナポレオンがそうでしょうか。曹操なども、そういえるでしょうかね。

後者のタイプは、自分の能力ではなしに、部下に有能な人材を置き(またそういった人材が集まる)、その部下の才能を遺憾なく発揮させるというものであることから、個人の才能=将才というより、人を受け入れる=将器、という印象が強いですね。

さらに申しますと、後者の「将器」タイプは、なんとはなしに、東洋に多いような印象を受けますね。
例えば、漢の高祖(劉邦)であったり、三国時代の蜀の劉備であったり。また、日本においては、西郷隆盛、西郷従道、大山巌辺りもそうでしょうか。

司馬遼太郎などは「花神」や「坂の上の雲」において、そのように描いていましたね(「花神」では、西郷は軍を動かすのが下手で、村田蔵六(=大村益次郎)ではなく、西郷隆盛が軍を率い続けていたら、明治維新はなしえなかった、という旨の記載があったように記憶しています)。…ただ、これは、より大きなくくりとして、軍略家としての才能の問題なので、将としての問題といっていいのか、ちょっと微妙かもしれませんけども。

軍略家と将の問題はさておき、この将器というもの、漠然とお分かりかと思いますが、客観的な数値であったり、データとして、何か示すことができるものではありませんで、非常にあいまいなもののような気がします。
ただ、実際にその人に会った場合、確かに何かがあると実感できる、そのようなものなのではないか、とも思います。

ちなみに、私自身には、こういった器は備わっていないことは、十二分に自覚があります(身体の大きさに見合った、ちっこい器でございます、ええ)。
また、「この人は、大人物だ。この人についていきたい」と思うような人物に、出会ったこともありません。
…なんというのか、こういうオーラがあるというのか、カリスマを持った人物、出会ってみたいものですね。ただ、のぼう様のような人物ですと、うっかり見過ごしてしまいそうです。

…しかし、将器などというものは、シミュレーションゲームなどには、非常に現しにくいですよね。数値化すると、全然大したことがない人物になってしまいますから。
「三国志」における劉備などは、カリスマが突出しているだけで、あとは、凡庸な数値になるはずではなかろうか、と思うのですが、ゲームバランスを考えて、適当に上げ底されているような気がします。


…何か、グダグダな文章になってきましたので、この辺りで締めを。
「のぼうの城」においては、個人の力量それ自体ではなしに、人を魅了し人を動かす、なんとも不思議な感じのする、人に働きかける「力」が感じられ、それが作品の心地よさを増幅しているように思います。

「人を動かす力って、なんだろう?」と、読後にちょっとそんなことを考えさせる、そんな作品でもありますので、この辺りからも、御覧になって戴きたい作品でございます。


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